<第99話>

第99話、おそろしーい誕生日○ヒ作戦は、男!あばれはっちゃくシリーズ最高の視聴率21・7%を記録したそうだ。

この数字を見ても改めて、すごい人気番組であったのだな、と思う。

番組の面白さは勿論、この頃は足早に成長していく長太郎の姿を、お茶の間の皆が見守っていたのかな、と思ったりする。

この頃になると、栗又厚さんも声が少年の通る声からざらついた低音が混じるようになる。怒鳴るところなど、出しずらそうな感じもうける。

あばれはっちゃくは、4日で1話を撮るペースだったそうだ。

1週間の内、半分以上を占めており、学生より、こちらが優先だったことが伺える。小学生でありながらプロの顔を持っていた栗又さん、やはりすごいと思ってしまうし、不思議な存在だな、とも思う。

そして、自身の姿、声をフィルムに焼き付けられる仕事であり、否応なしに毎回客観的な自己を見せられる面もあり。

急激に変わっていく年齢で、今までのような声がでなかったり、顔つきが変わっていくのを普通の少年より感じたであろうが、多忙でそんな戸惑いさえ抱く間もなかったかもしれない。

この回は、兄貴を男にするため、長太郎が兄貴の決闘を鼓舞するドタバタが描かれる第49話のバリエーションの面があるが、無鉄砲なズル戦法から、きちんとした種目?で決闘させるところが、成長を伺わせる。

信一郎兄貴が謎の男から嫌がらせを受け、その男との決闘をてんやわんやのコメディに描いている。実は兄貴に思いを寄せる下級生のプレゼントのチョコレートをこっそり長太郎が食べてしまい、そうとは知らない兄貴が、その下級生につれなくしてしまい、腹をたてた下級生の兄貴が謎の男に成りすまししていたことだった。

結局は長太郎が兄貴の代わりに闘うことになる展開は前の決闘と同じである。


八幡大ぼさつ…わかりやすく明記する配慮にグッとくる。

シリーズも終わりに近づき、リラックスしたのどかーな雰囲気も何となくこの作品から感じられるのである。

浅草寺にて>

第54話出た!宇宙人マル秘作戦で、父ちゃんに勘当された長太郎が家出をし、浅草で補導され、そこに父ちゃんが慌てた様子で駆けつける。いつもは、威勢よく、容赦なく長太郎を叱り飛ばす父ちゃんだけに、父ちゃんの気弱な、寂しさがここではでている。思い切り叱り飛ばした後で、家出をした長太郎を一番心配してしまう父ちゃん。ここでは叱りとハラハラとした心配という心の揺れ動きがあって、人間臭く見せている。ふと見せる寂しさ、それも父の姿なのかもしれない。余談だが、小津安二郎も父親の寂しさをよくサイレントから描いていた。ここで長太郎が自分で父ちゃんの手を取って頭を叩く演出は立場が逆というか、絆が感じられてとても良い。前に柿の葉さんのブログを見せてもらって、マルベル堂に二代目はっちゃくのプロマイドを求めに来たことが懐かしい。無かったけれど、ちょうど30年まえに栗又さんは浅草寺にロケーションに来ていたのだな、とやはり感慨深く思う。





<大胆マップ>
少し前に、カマキリエッグさんがアップされた、大変貴重な大胆マップのあばれはっちゃく同窓会の動画を見せていただいて、本当に嬉しい、ありがたいことだった。あばれはっちゃくの情報は常に皆様の脛かじりをさせてもらって、申し訳なくも、ありがたく楽しませていただいている。

この動画は、2009年によゐこ濱口優さんがあばれはっちゃくに会いたいということで、吉田友紀さん、早瀬優香子さん、山内賢さん、栗又厚さんが集われた企画だった。

この動画では、今のお姿と、雰囲気や人柄に触れることができる。

吉田友紀さんは、逆立ちに気軽に応じたり、飾らなくて人柄の良さが短い時間ながら伝わってくる。役者として真剣に仕事に打ち込んだり、御苦労を乗り越えた人の優しさ、懐の深さがでている気がする。

栗又さんが遅れて来られた時、早瀬優香子さんが非常に驚かれていたのも印象的だ。来た男性を一瞬で栗又さんと認識して、成長された姿に驚いたのだろうか。確か、顔はまあまあ(良い)と言ってくれた早瀬さん、栗又さんの面影が焼きついていたのかと想像したりする。

山内賢さんは、2007年の同窓会でも吉田さんと栗又さんに会われていた。だけれども、栗又さんを見てすぐ、(あっ!栗又君!二代目あばれはっちゃく!)と声を上げていたのは感動する。長い時間が隔てたろうに、一瞬で時が無くなり、親しみをもってそう呼び掛けられるなんて。そして、山内さんが(栗又君)と呼んでいるのを聞けたのは、嬉しかった。

動画のコメントの中で栗又さんの知り合いの方がコメントを入れている。栗又さんはどちらかといえばいじられキャラでいい人であると。劇中では、スラップスティックに水をかけられたり、ぶたれたり…愛嬌、愛着があるゆえ、そういった演出が多くなったのか、そのコメントといじられるはっちゃくが少し重なってしまう。スラップスティックな演出をほのぼのとした笑いに昇華するには、息のあった間合いや、やはりそのキャラクターが大切かもしれない。



私は、栗又さんのはっちゃくが好きで、どう好きかというと不思議なのだが、友達であり、弟であり、兄貴であり、はたまた自分の子供であるかのように好きなのだ。意味不明なので止めるが、一つ言えるのは、身近に栗又君のはっちゃくがいたら生活が楽しいだろうな、と思わせるところだ。でも、これは個人的なことで人はそうは思わないだろう。

<つれづれに>

国語の時間。この初山滋風の表紙の教科書は懐かしさを覚える。この頃の国語の挿し絵や表紙は初山滋風の淡い水彩画(版画?)が多かった気がする。長太郎たちが使っているこの教科書も色彩感覚に溢れていて、今見ても綺麗でいい。

習字の時間も懐かしい。気をつけないと、文字が入らなくなったり、名前を書くスペースがなくなったりした。

最終回の長太郎。習字が付け足した名前と共に長太郎の部屋に飾ってある。長太郎らしい力強い字である。
この最終回にでてくる、長太郎と寺山先生との写真は、いつ見てもいい。ふたりの間柄が表れている証のような写真。

つれづれに作品を見ていると、長太郎がかつて着ていた服をアキラが着ていたりする。これは友情の証にアキラが譲り受けたのだな、と勝手に想像する。長太郎はジャストサイズでもアキラには余裕があるようだ。

<紐解き>

第62話羽ばたけヤキトリマル秘作戦の栗又厚さん。この眼力といい、彼は本当にいい面構えだと思う。体の隅々まで生気がみなぎっているような。線がか細くなくて、この時代だからあり得た子役なのかな、と思ったりする。

この回では、沢山、はっちゃくという言葉が出てくる。原作の山中恒さんによると、知り合いのおばあさんのいなかの方言で、手のつけられないあばれんぼう、の意味だそうだ。

この回では赤城時次郎という少年が出てくる。彼は、長太郎が群馬にいたとき、中学入学にあたり、二代目あばれはっちゃくに任命した人物なのだ。あばれはっちゃくはなんと任命制だったのだ。その任命式が描かれる。

男と書かれた木片を二つに割り、同じお守りに入れ、お互いが持っている。長太郎はランドセルに付けている。

赤城さんは言う。
(はっちゃくあばれんぼうだ。だがな、正義の為にしかあばれちゃいけねぇ。)
そうか。これが規範だったのか。分からず屋を懲らしめるとか、許せないこと、人助けとか、必ず理由があって、それは赤城さんとの約束だったのだな。

赤城さん役の西山勝仁さんという子役は同時期にサンキュー先生という、小学生版金八先生と言われたドラマに出ていたそうだ。このドラマは制作国際放映、テレ朝放映、制作の落合兼武さん、山際永三監督、脚本山根優一朗さんが関わり、出演者も吉田友紀さん、浅川薫さんなどかぶっている。はっちゃくの任命だから、吉田友紀さんがファンとしては嬉しかったかもしれない。役の成長具合や、後の桜島ロケ出演が決まっていたとか、多忙であったとか、理由があったのかな、と思った。

赤城さんと長太郎のやり取りから、はっちゃく憲法?があることも判明する。

第1条、常に希望を持て。
第2条、泣きごとを言うな。
第3条、むやみに人の世話になるな。

どれも、シンプルだけど貫くことは難しい。今の自分になんとも喝を入れてくれる言葉だ。

長太郎は寺山先生から呼び出され、夜に神社で賭けメンコをして子どもたちからお金を巻き上げていたと誤解される。

それは、あの、赤城さんと共通のお守りが落ちていたからだった。

(あいつだ、間違いない!)
長太郎は偶然、公園で赤城さんを見つけると殴りかかる。

(はっちゃくの名を汚しやがって許せねえ)
(正義の為にしかあばれちゃいけねぇっていったのは赤城さん、あんたじゃねぇか!)

話を聞くと、赤城さんは入院した母親の入院費を稼ぐ為に東京出稼ぎにきた父親を探しに東京に出てきたのだ。だが、手懸かりをなくしてしまい、3日も食べてないことから、仕方なしにしたことだった。

長太郎は父ちゃんから、赤城さんを不良と決めつけられ言う。

(赤城さんは不良なんかじゃないやい!立派なはっちゃくだい!)

赤城さんの父親が見つかった。ヤキトリの屋台を牽いて稼いでいた。だが、置き引きに遭い、後2日で母親が病院から出されてしまうのに、後、5万円足らない。


(ひらめいた!)


赤城さん親子を病院に出向かせ、その間、長太郎たちが屋台を切り盛りする。

そして、赤城さんが父親に電車でいう。

(あいつは立派なはっちゃくだよ。)

他を見ていないので分からないが、二代目は、様々な商売に自らチャレンジする。ヤキトリ屋台、ラーメン屋台、年末のお飾り売り、焼き芋屋台、チンドン屋さん、特許申請中の工作機械の叩き売り等。どれも、生活を直接支える、左右する、暮らしそのもの、といった商いだ。

それは暮らしをつないでいく、生きることを粗末にしていないということ。それは自営の母ちゃんを見ていたからだろう。稼ぐこと、生活することが一体になった逞しさ。

赤城さんの最後の、あいつは立派なはっちゃくだよ、は、しみじみと響いてくる。暴れるだけでないはっちゃくの姿を長太郎に見たのだ。ここで、心から感服し、名を譲った、という感じがする。

<第3話の長太郎>
仕事というか、暮らしの中で、少し、落ち込むことがあり、人のあいだの悩みは尽きないと痛感。漸く、人は多面体であり、視点を変えれば又違い、人を一面的に、一人の視点だけで捉えることをすまいと反省した矢先なのに。言葉の一つ一つにとらわれまい、言葉を真に受けまい、何事も細かいことにとらわれず大目に見ていこう、と決めたのに。

相手の言葉に私は今まで非常に真に受けてしまっていた。よく、聞き流す、というが、なかなか出来ず、重くとらえて苦しんでしまっていた。人が人を捉える時、その人の感じ方であり、絶対ではなく。もし本当にそういう人だったとしても、その関係性の中ゆえ生まれた性格かもしれず。

でも人が人を評する特に悪い意見は、やはり聴きたくないし、本当だとしても色々総合的にとらえて発してほしいな、と思った。

今日は、第3話、ドジな兄貴さマル秘作戦を、見る。

長太郎の兄貴信一郎が同級生の千春さんに片思いをし、煮え切らない兄貴を歯がゆく思ったのか、長太郎がラブレターを書いて、千春さんに勝手に渡してしまう。


かなり個性的なラブレターだったので、千春さんにつっ返され、兄貴はショックを受けて、登校拒否に陥り…。

長太郎は余計なお節介と言われ、父ちゃんに大目だまな上、非道いセリフを吐かれてしまう。



(こんな風に育つのがわかってたらな、てめえなんか生まれた時に死んじまえばよかったんでぃっ!)

例え、悪口で混ぜ返す言い方の父ちゃんでも度が過ぎている。子供は皆自分の両親が一番好き。誰だってそのようなことは決して言われたくない。家を飛び出した長太郎、友達、洋一の家で焼き芋を食べながら、それを打ち明ける。そのことからも傷ついたのがわかる。

でも、長太郎は言う。(まあ、いいさ、俺はどんな生まれだって、負けはしねえもん。)

傷ついたのを隠して波立ったはずの心を鎮めて兄貴にその後も一肌脱ぎ続ける。私は家を飛び出して長太郎が先のセリフを言える強さの礎はなんだろうと思う。
転校してからまだ間がなくて、群馬での自然の中での暮らし、山、川、生き物の姿が浮かび、なだめていたのかもしれない。

最後に、兄貴によって次男なのに長太郎という名前の由来が紐解かれる。生まれた時に未熟児だった為、父ちゃんが必死になって、長く、太く生きれるよう付けた…。名前は最初の親の愛情というが、底にある、父ちゃんの長太郎に対する気持ちを感じさせ、終わりになる。

一筋縄にはいかない、一面だけでは計れない親子の関係。そして、言葉一つ一つにとらわれず、相手を信じて、大目に見て、赦してあげる、海原のような強さ…。

私にはそのような強さはないけれども、動じない心というか、色んな方向から物を見て、言葉を真に受けすぎないようにせめて…となお今日は思った。

<走れ!じゃじゃ馬>

第31話は教育実習生、森下先生のお話。

長太郎にどう対してよいか悩んだ先生は、担任の寺山先生から、(まあ、友達のように接する、これが一番のコツですよ。)と言われた。

友達…寺山先生のことだから、森下先生にもっと気楽に過ごして欲しいという思いや、短い間で何らかの手応えをつかめなければならない実習生を思いやったのかもしれない。

寺山先生は、長太郎に友達のようには接し方はしていないと思う。長太郎にピシャリと叱るシーンなどを見ても、厳然と、教える、諭す側の態度があり、威厳もある、まごうかたなき先生だ。

だから、あえて友達のように、と言ったのかも。

新しい環境に飛び込んでいくことは誰しも大変で、森下先生のように心が折れてしまうこともあるだろう。
そして、成長過程にあるもの同志だからこその、この時しかない出会い、経験がある。

教育実習生である森下先生も、長太郎もまだまだ変わっていく存在。

生徒全員に嫌われている、と置き手紙を書いた森下先生もやがて、弱さを克服して、持ち前のファイトと情熱を生かした教師になっていくだろう。そして長太郎も意地を通すところはそのままに、子供ながらの奔放さを脱ぎ捨てる日もやってくるだろう。

でも、長太郎のような子は先生にしたらやっぱり大変なのだろうか。